インターネットやSNSの普及によって、それまで知る由もなかった海外のセレブの日常などを、彼らのツィートなどで知ることができるようになりました。地球の裏側で行われているマイナーなスポーツの中継なども視聴することが可能になりました。本の中に出てきた町や、人から聞いた観光地なども、居ながらにしてビジュアルに知ることもできます。ネットはたいへん便利なものです。しかしそうした便利さを享受することによって社会が良くなり、自分の人生が充実したものになるか、それは疑問です。なぜなら、私たちに与えられる時間は変わらないからです。
ネットやSNSを通して、得られる情報のほとんどは、ご近所や職場での噂話の延長に過ぎません。また配信される情報はネットの発展とともに動画が主流になってきました。いわば、ネットがテレビ化してきているのです。
小説を本で読むのと、テレビや映画で見るのでは、その理解が決定的に違います。『風と共に去りぬ』を本で読む場合、主人公スカーレット・オハラの人物像は、読むにつれでき上がっていき、それは読む人読む人で違ったものになります。しかし映画で見る場合は、ヴィヴィアン・リーの姿が一瞬にして脳に注入され、固定観念として定着してしまいます。これは強烈で、本で読んだ場合でも長時間かけてつくり上げてきた人物像を即座に塗り替えてしまいます。
またテレビのニュースなどをたまたま見ていて、知ったとしてもすぐ忘れてしまうような政治家のたわいない失言が、ネット上に拡散されるうえ残り続けることによって、異常なバッシングに変貌し、いつまでも鳴り止みません。その間、政策的な議論はまったくメディアや国民の話題にはのぼりません。メディアや野党は、与党を叩ければ政策など後回しで構わないのです。メディアや政治家のやりとりも、ご近所の噂話と同様なものでしかないことがわかります。
これらは仕入れる必要のない情報です。今年は、暗殺された安倍首相の追悼をそっちのけにしてモリカケ・桜問題ばかりが、国会やメディアで騒がれました。しかし、これらについては巷で議論されることなど、実際はほとんどありませんでした。一般の国民はただ目前で繰り広げられるドタバタ劇を見せられていたのです。しかしこれらのドタバタには多大な税金が注ぎ込まれているのです。こうした政策そっちのけの政治や異常なコロナ騒動も、企業や政治家の意をくんだメディアに唯々諾々と国民が乗せられ、政治を動かしてしまうという社会構図の上にできています。国民の一割でもこれらのおかしさに異を唱えることができれば、確実に社会は良い方向に転換していくのではないでしょうか。
頭の中で情報の入手業務と思考や発想業務は反比例の関係にあるのではないでしょうか。SNSの普及で多くの若者は考える機会を失っているように思えます。調べたことと考えたことが自分の中で同一視してしまっていることが多くなっています。ある学者の意見をネットで調べて、私も同意見であるといえば、自分が考えたことだと思ってしまうのです。答えがどこかに転がっていると思う思考特性は想像力を蝕んでいると思います。ネットやSNSがあると、自分の世界が広がったと感じますが、それは幻影で、範囲は広いかもしれませんが、自分の世界が限りなく薄いものになってしまっているのです。あなたがどこに住んでいるかを知っているトム・クルーズは、あなたのことなどこれっぽっちも知りませんし、知ろうとも思いません。あなたが広がったと思った自分の世界は、望遠鏡で覗いた世界にすぎません。手にとって感じることなどできないのです。
我々はいまこそ世界を小さくする必要がある、メディアや他人の意見から離れて、インターネットのなかった昔のように濃い自分の世界を再構築する必要があるのではないでしょうか。
令和四年 株式会社ヌースフィット 亀ヶ森 統