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龍安寺蹲

2018/01/11
観察事項「できる自分の蜃気楼を追うな」

 明けましておめでとうございます。昨年もまた弊社製品をご愛顧いただきまことにありがとうございます。
 昨年もまたいろいろなことがありました。出会い、別れ、多くの失敗、小さな発見、多くの見落とし、わずかな改善。
しかし、動かなければ景色は変わらないし、物事を多面的に見ることもできません。反対に動けばいろんな問題も起こります。そして小さな失敗をできるだけ多く見つけ改善することが、大きな失敗を防ぐ要諦であることに改めて気づいた年でもありました。

 私事になりますが、12月30日はつらい日でした。義兄の兄が前々日に亡くなり、告別式があったその夜に、私と妻で十数年面倒を見てきた叔母が亡くなったのです。
叔母は二十年ほど前まで赤坂のTBSに面したビルで「ごらいこう」という割烹を経営していました。料理人が5、6人ほどいる店で、ふぐとしゃぶしゃぶの懐石料理をメインにしていました。ここで修業した人の中から、二人の料理の鉄人が生まれています。ごらいこうの板前さんは、同じ赤坂の料亭「川崎」で修業した方が多かったのですが、ごくたまに板長さんと飲みに行くと、ふつう聞けない料理や素材、料理人の話を聞くことができました。以前苦手だった食材も、調理の工夫を聞いたり、彼がいかにもうまそうに食べる姿を見ると、なんだか自分でも食べたくなり、私の味覚の幅を広げてくれました。

   また十数年前にこんなこともありました。妻が何かの雑誌で見つけた京都先斗町の小料理屋「京菜」に行ったときのこと、お店の柱に妻と宝塚音楽学校の寮で同室だった下級生の千社札が貼ってあったことから、主人の島崎さんと話がはずみ、彼が「川崎」の出身であることがわかりました。そしてごらいこうの板長だった山崎さんの話をしたら、なんと修業時代彼と同じアパートに住んでいたことがわかったのです。島崎さんは、「山崎君は赤坂の料理人のホープだったなぁ」と懐かしそうに話していました。そういう島崎さんも、わずか7人ほどで埋まってしまうカウンターだけの店ながら、かなり高価だろうと思われる調理器具を揃えており、包丁を握ったときの鋭い目つきには、ただものではない風貌がありました。そこでいただいたカツオのたたきや銀だらの焼き物は、今でも妻との会話に出てくるほどのおいしさでした。
私はそれから数年間、旅行や出張で京都に行くたび、京菜に寄るようになりました。そしてぜひ叔母を連れて来ようと思っていたのですが、やっと母と叔母を連れて行ったとき、大変残念なことにその数か月前に島崎さんは亡くなっていたのです。店は、おかみさんが一人で切り盛りしていたのですが、出せる料理もわずかになってしまい、ほどなくたたむことになってしまいました。

叔母は生涯独身でした。ごらいこうを始める前は、原宿の表参道と明治通りの交差点に面したグリーン・ファンタジアの2階で「SアンドP」という、オリジナルのサンドウィッチとパンケーキが売り物のカフェをやっていました。当時階下にあった千疋屋は今もあります。不動産業をしていた兄(私の伯父)の助けを借りてはいたものの、叔母には人気店をつくる才能があったらしく、SアンドPは、表参道界隈を代表するオシャレなカフェとしてとても繁盛していました。まだ私が小学生の頃です。先日昔の写真の中から、お店のパンフレットが出てきました。今ではやけに古臭く見えますが、昭和40年頃ならハイセンスに見えたのでしょう。


goraikou

ごらいこうは赤坂の割烹に続いて飯倉にフレンチレストランもオープンしました。


 当時叔母は青山に住んでいて、花小金井にあった私の家にときどきシボレー・コルベットに乗って来ました。その頃は家のそばでは外車が珍しく、それもスポーツカーだったので、近所の人たちが見に来ていました。叔母が小柄だったので、まるで私には無人の車が動いて来るように見えました。
SアンドPは順調だったのですが、ある日伯父が関西で食べたしゃぶしゃぶのことを叔母に話しました。当時はまだ東京にはしゃぶしゃぶを出す店がほとんどなく、東京でやれば成功するのではないかと考えたのです。叔母はSアンドPをたたみ、しゃぶしゃぶの店を出すことに決めました。結果は大成功でした。冷凍物は使わず毎日松坂から取り寄せる牛はとろけるほどおいしく、掘りごたつの個室も珍しかったので、またたく間に芸能人や政治家が常連となり、経営は順調でした。しかし、20年後の平成元年もっとも信頼していた伯父が急死し、その数年後最愛の祖母が亡くなると、仕事に対する情熱を急速に失い、25年続いた店をぷっつりとやめてしまったのです。  その後叔母は仕事をせずに日々を送っていたのですが、将来に対する不安があったのかもしれません。ごらいこうの常連だった政治家の顧問から連絡があり、「もっているお金を増やしてあげるよ」と言われ、虫のいい話に乗ってしまったのです。そして騙されたとわかったとき、私に相談があったのです。
叔母と話してみると、あろうことかマンションの権利書まで彼に預けてしまっていました。それだけでなく、叔母にはビジネスの一般常識がまるでなく、経営の数字もよく知らないことがわかりました。よくこれであれだけの店をやっていたなと思いましたが、騙されたときにどのような事態に陥ってしまうのかまるで考えていなかったようでした。さらに叔母が背負ってしまった負債の請求権は、善意の第三者である大手クレジット会社に移転されていました。
私は手当たり次第に知り合いの弁護士や法律に詳しい社長に聞いてみたのですが、誰もがどうしようもない状態であるとの意見でした。また騙した当事者にも会い、金を叔母に返すよう説得しました。しかし、彼は返したくても自分には財産がほとんどない、調べればわかる、と言われてしまいました。弁護士に頼み裁判を起こしましたが、勝訴したものの、彼は出頭せず、財産があれば差し押さえてよいという判決でした。彼の事務所が永田町ビルにありましたので、その界隈の銀行に彼の名義があれば差し押さえようと試みました。しかし、これは宝くじのようなもので、引っかかったのはほとんど預金のない口座だけでした。考えてみれば、彼は詐欺のプロみたいな人間ですから、いったん素人がはまってしまったら絶対取り返せないように、何重にも手を打ってあったのです。
  万策が尽き、毎月百万円もの利息が積み重なっていく状況で、とうとう叔母は当時住んでいた乃木坂のマンションを手放すことになりました。老後の不安からお金を少しでも増やしたいと思った欲の代償でした。

 私と妻は叔母を励まそうと思ったのですが、意外にも叔母はあっけらかんとして「やってしまったことはしかたがない」と言ったのでほっとしました。私たち以外にそばで面倒を見れる親戚がいなかったので、私たちと同じ杉並でアパートを探し、転居させました。アパートのある荻窪は、もともと母や叔母が祖父母と住んでいたところです。引っ越しに際しては、いろいろなものをずいぶん大胆に処分しました。転居してしばらくひとり暮らしてみると、乃木坂との違いが日に日に感じられるようになったのか、叔母はなんで自分がこんな境遇になったのかわからないようでした。それでも引っ越した当初はまだ1千万円ほどの預金が残っており、私たちがときどき京都や北海道旅行などに連れて行ってあげると、必ずお礼に青山のKINOKUNIYAなどからお菓子を送ってくれました。しかし、数年たったころ電話がかかってきて、「また私騙されちゃったの」と言うのです。なんでも投機性の高い投資話に乗ってしまい、持っていたお金をほとんどすってしまったのです。数年前マンションを取られてしまったというのに、まったく懲りていないというか、この時点でも一発逆転に賭けてしまったのか、ほとほとあきれてしまいました。それまでは、お年寄りがオレオレ詐欺などに引っかかるのはどうかしていると思っていましたが、叔母のように記憶ははっきりしていても、無知で世間知らずだと簡単に騙されてしまうことを知りました。そして、根底には自分の欲が絡んでいるため、失敗するまでは私には相談しないのです。

 そんなことがあって、私も叔母のことがよくわかり、これはもっと面倒を見なくてはだめだなと思いました。今後は投資をしたくても元手がないので、その点では安心でしたが。しかし叔母は昔C型肝炎を患っており、徐々に肝硬変が進み疲れやすいからだになっていました。それまでのアパートが二階にあり、階段の上り下りが辛いので、荻窪駅に近い一階の部屋を探し、そこに住まわせました。
  このころになるとさすがに叔母も年金以外にお金が入って来ない状況を理解するようになったのですが、今後はお金の心配はしなくていいよと言ってあげたので、少しは安心したようでした。しかし、昨年になると体力の衰えが激しくなり、旅行に行こうと言っても「行けそうにないわ」と言われるようになりました。さらに数年前に階段から転げ落ち、人工の股関節を入れたため、最近は歩くのが辛くなかなか買い物にも行けないことがわかりました。
私と妻は心配になり、自分たちが行ける日は限られるので、ヘルパーさんを頼もうということになりました。そのためには母(要介護3)と同じように介護認定を受けさせる必要がありました。しかし、介護認定の結果は要支援1でした。まったく実情が反映されていない判定でした。母は私たちと暮らしているので、何かあってもすぐ対応ができますし、食事もしっかりとらせることができますが、叔母の場合はそうはいきません。心配で叔母のところに行く回数が増えました。ただ、妻が彼女の両親や母の世話をするばかりでなく、叔母に対しても献身的に病院やケアマネージャーとのやり取り、買い物や銀行振り込みなどをしてくれたので、とても助かりました。叔母も妻に絶対的な信頼を寄せていました。叔母を何日も一人でいさせるのは心配なので、ヘルパーさんの回数を増やしたいと思い、介護認定の再申請を行いました。どうしても要介護の判定が必要だったのです。

 そんな中、12月のはじめ、叔母は物を飲み込みづらくなったため、数か月前から行き始めた荻窪の病院に、ヘルパーさんに付き添われて行きました。叔母から電話があり、医師から脱水症を起こしているので、入院して点滴を打った方がいいと言われたとのことでした。私たちもその方がいいと答えました。しかし、入院したのに日に日に叔母の容体は悪くなって行きます。5日もすると酸素吸入をされるようになりました。医師からも話があり、なんで悪化しているのかわからない。おそらく、点滴では必要な栄養が取れないからかもしれないので、胃ろうか足の付け根からの点滴に変える必要があるので、判断してくださいと言われました。しかし亡くなる一週間前まで肺炎を起こしていることに病院は気づかなかったのです。そのころにはもう叔母はほとんど話をすることもできない状態になってしまいました。病院からは、叔母を治すことよりも延命措置についてどうするかということばかり言ってきます。そんな状況で叔母はあっけなく亡くなってしまったのです。叔母が亡くなったあと、アパートに来ていた書類に介護認定の通知がありました。判定はまったく意味をなさない要支援2でした。

 数日前にごく内輪で葬式を行い、いま叔母の遺骨はわが家にあります。正月を挟んでしまったので葬祭場が混んでいて葬儀が遅れたのです。

  叔母が亡くなっていろいろなことを考えました。
  病院は、昨年前半まで電車で5駅離れた武蔵野市の病院に行っていたのですが、通うのが大変になり家の近くの荻窪の病院に替えたのでした。もしかしたら武蔵野市の病院に行き続けていたら、数年は長生きできたかもしれません。また別の医師だったらすぐ肺炎に気づいて、もう退院していた気もします。私が見舞いに行ったときも、看護師はすごく親切な人もいるし、性格がどうかしているんじゃないかと思うくらいにぞんざいに患者を扱う人もいました。同じように、医師についても、能力の差は個人によって非常に大きいと思います。そうした集合体が病院である以上、われわれがどこの病院でも同じような治療やサービスを受けられるというのは幻想に過ぎないということがわかりました。

  今回の件も、人によっては医療ミスだというでしょう。そして、しばしばニュースでも取り上げられるように、ほとんどの医療ミスに対して、病院は隠そうとします。統計的品質管理の手法であるシックス・シグマでは、製造業において製品100万個あたりの不良を3~4個に抑えることが目標と言われていましたが、航空機では二十数年前から8シグマが求められていると聞いていました。1月8日付の産経新聞「産経抄」では、昨年は世界のジェット旅客機事故で亡くなった人は一人もいなかったとのことです。それに対し、2013年の医療過誤による死亡者は40万人に上ったとのことです。航空機と医療機関との違いは、ミスを公表し徹底的にえぐり出す航空機事故に対し、医療ミスにおいては病院ぐるみの隠ぺい体質があるからだと思います。

叔母を騙した人間に関していえば、叔母のような無知の弱者を騙す人間は許せませんが、悪い人間が悪いことをするのは道理であって、社会には一定数そうした人間がいることは仕方ありません。若く思考力もあるならともかく、年を取り思考力も鈍ってきた人間にいまさらリスク教育をすることはほとんど不可能です。問題はそうした無知で騙された人に対する社会のペナルティが大きすぎるのではないかということです。また、たとえ善意の第三者に債権が移転していても、何か救済措置があってもいいのではないかと思います。よく無知は罪とか無知は悪とか言われますが、いかがなものでしょう。一方で弊社でも、社内の人間がこうした詐欺に遭わないように啓蒙していく必要があるとも感じました。
 しかし、今回一番後悔したことは、自分がもっと叔母にしてあげられたことがたくさんあったのではないかということです。仕事中に叔母から電話が掛かってくると面倒臭く感じて、きつい応対をしてしまうことも何度もありました。今考えれば、叔母が仕事場に掛けてくるということはよっぽどのことで、自分で対応ができればわざわざ掛けてくることはなかったのだと気づきました。私の頭の中では、叔母を可哀そうに思う気持ちと、自分は家賃を払ったりして叔母の面倒を見てやっているんだ、叔母は私たちしか頼れないんだという横柄な気持ちが相半ばしていたのです。

  叔母が亡くなって、妻とアパートに行ってみると、先々月妻が買ってあげてまだ十日も使っていないソファーベッドと、これも買ったばかりでまだ使っていない電子レンジがありました。そして仏壇には私からの年賀状と、祖父母と小さい頃の私の写っている写真が置かれてありました。なにか取り返しのつかないことをしてしまったような気になりました。医療過誤は抜きにしても、いずれこうなることは予測がついたのではないか、だったらもっとやれることがあっただろうと思ったのです。そう思うと次々と悔やまれることが思い出されました。


family

 叔母が写っている写真が出てきました。たぶん、昭和三十年代のものだと思います。右端が叔母で、左端が伯父です。父に抱きかかえられて馬鹿みたいに笑っているのが私です。姉が母の前にいますが、私と違って今でもクールな人間です。

 
昨年弊社では、ISO(国際標準化機構)の品質マネジメントシステムであるISO9001の認証を受けました。
ISOには「観察事項」という考え方があります。現状では定めた規格やルールからの逸脱はないものの、このままでいくと問題を起こす可能性がある事項を言うのですが、弊社はこの観察事項の塊のような状態であったにも拘らず、それを軽視してきたのです。
  弊社では毎年2回化学(毛髪科学を含む)の試験を行います。幹部向けと営業向けとビギナー用の3種類の試験を行います。範囲は高校の化学のレベルを超えたものではありません。全体の能力向上を目指して行っているものですが、毎回ほとんど点数は変わりません。できなかった人はその日の日報で「次は頑張る」と書いてきます。化学の試験を年二回やるというルールには適合していますが、それで能力が上がっていないのですから、妥当性や有効性に欠けているのは明らかで、これは観察事項に当たります(もちろん試験をやっただけで能力は上がるはずもないのですが)。

 さて、次は頑張ると書いてきた人間の点数が良くなったためしはありません。なぜか皆、半年後には「できる自分」がいると勝手に思ってしまっているのです。次は頑張ると言っている自分は「できない自分」であり、そのできない自分がいくら頑張ったところで点数は上がらないのです。ですから、決意しなくてはならないのは、次のテストを頑張るというのではなく、試験をした日の翌日、その次の日と毎日頑張り、次の試験まで継続的に頑張り続けるということなのです。そうすれば、試験では頑張らなくても点数は上がるのです。

  私も含め、なぜか私たちは「できる自分」がすぐそこにいると思ってしまいがちです。英会話などはその典型的なものではないでしょうか?教材を買ってしまえば、数か月後には英語がぺらぺらの自分がいると思ってしまいます。しかし、現実はそうはなりません。もしそうだったらこれだけ英語ビジネスが儲かり続けることはできないと思います。なぜならば、今話せない自分は、何十年もかけてできあがったものだから、n年かけて英語を話せない自分が存在していたら、数学的帰納法?により、n+1年目も話すことはできないのです。

 弊社では昨年より板橋区の指導の下にBCP(事業継続計画:Business Continuity Planning)に取り組んでいます。これは3・11のような災害が起きたとき、どうしたら速やかに事業を復旧できるかをあらかじめ考えておくというものです。私は3・11以前から弊社の工場がとても狭く、製造設備の予備も置けないので、何かあったら当分は復旧できないだろうと恐れていました。しかし、実際3・11が起きてみると、巣鴨本社の電子顕微鏡は壊れたものの、板橋舟渡ワークスの製造設備は奇跡的に無傷でした。でも、次はこうはいかないだろうと思っていましたので、BCPのことを知ったとき、これはISOの認証が済んだら、BCPに組み込むべきだと考えたのです。当初は、うちは乳化槽がだめになったら生産はストップするのでBCPもへったくれもなくなると思っていたのですが、学んでいくうちにそういう考えは100%復旧のことばかりに目が行っているからだとわかりました。とりあえずは20%でも復旧するためにはどうしていけばいいかをまず考えるべきなのです。
  叔母の件でもそうでしたが、何かしてあげなければと思いながらもなかなか行動に移せませんでした。今考えると叔母にしてみれば、私ができることの20%でもしてくれれば、それで満足だったのかもしれません。これも私にとっては、痛い観察事項でした。

 観察事項をビジネスや私生活に活かすためには、「できる自分」という蜃気楼を打ち破らなくてはならず、それには目標を明日やるべきこと、この一週間でやることに落とし込み、それに全力を挙げる以外にないという教訓を得たのでした。
  今年一年、社員とともにたとえ少しずつでも一日一日努力を継続して悔いの少ない年にしたいと思います。また、お客さまとは一緒に学び、悩み、喜ぶ存在であり続けたいと思っています。本年の皆様のご多幸をお祈りします。

平成三〇年 元旦                株式会社ヌースフィット 亀ヶ森 統