inoshishi_iroiro

2019/01/07
ルールの先にあるもの、便利さの先にあるもの


 あけましておめでとうございます。昨年も弊社ならびに弊社製品をご愛顧いただき有難うございました。
昨年も欠品やらミスやら、改革は遅々として進まず、まだまだ企業目的の「社会に望まれる企業」にはほど遠いヌースフィットです。
  その反省をもとに、年末年始とつらつら考えてみました(だらだらと長いのでご注意!)。

 昨年の弊社の年度活動方針は、①厳格な現状認識、②ルール厳守、③決定事項は直ちに実行の三項目でした。どれもこれも当たり前のことを言っているのですが。とくに「ルールを守ることが大事」ということは、社員の日報にも頻繁に出てきており、当然のことと受け入れられています。しかし、日常茶飯事にミスや失敗は起き、そのたびに「ルールをちゃんと守ったか」、「これに関するルールがなかったからミスが起きたんだ」などとワンパターンの話し合いが行われます。

 ルールはなんで必要なんでしょうか?人を罰するため?

 たとえばクルマでトンネルの中を走っていると無灯火のクルマをよく見かけます。おそらく運転している人に言わせれば、「このくらいの明るさがあればオレは見えるから大丈夫」などと思っているのでしょう。他のクルマから見にくいだろうなどという意識が欠如しているのです。それで無灯火のための事故が多くなると、規制ができ、取り締まりが強化されるようになります。さらに、規制が進むと、今度は自動車会社が暗いところでは必ず点灯するようなシステムをつくったり、終日ライトをつけるように義務付けられたりします。
  しかし、それで規制前にライトをつけなかったドライバーは賢くなるのでしょうか?おそらく何も変わりません。信号が青になってからウィンカーを点け出すドライバーも多いですが、システムが良くなっても、彼らが後続のクルマに配慮しないのは同じです。そして、後続に配慮するドライバーが多くなれば、事故や渋滞が少なくなり、交通はよりスムーズになるだろう、などという考えは決して思い描けないのです。
  カーナビ、スマートフォンの地図ソフトが当たり前の世の中で、私たちは確実に方向感覚が悪くなっています。
クルマの進化の一つの到達点である自動運転が当たり前になったとき、私たちはとても賢くなっているとは思えません。
IT関連の成功者や評論家は、ITによって生活や仕事が便利になると、人びとはそれによって空いた時間をよりクリエイティブなことに使うようになると言っていますが、本当でしょうか?もともと他のドライバーのことを考えられない人は、想像することが苦手な人たちが多いのではないでしょうか?
  また、以前から暗くなればライトを点け、後続のクルマに配慮してウィンカーを点けていたドライバーからすれば、ルールは煩わしいものでしかありませんし、運転の自由度が減り、その分楽しみも減るのではないでしょうか?自動運転に反対しているわけではないのですが。

 人はルールを求めたがります。ルールがないと不安なのです。私は日頃社内でしくみの改善を訴えていますが、その悪影響からか、ミスを犯すとすぐチェック項目を増やしたり、ルールをつくったり、しくみを変えようとしたりします。たとえば、先日社員が段ボール箱に押す日付用スタンプを、誤って床に落として壊してしまいました。彼の報告は早急にスタンプのホルダーをつくるというものでした。私としては、ほとんどの人が落としたことのないスタンプを、なぜ自分は落としてしまったのかを考え、まずは自分自身の改革を行なってほしかったのですが、ルールやしくみをつくればもう安心して、自分自身の反省はどこかに行ってしまうのです。原因を外部環境にだけ求めている限り、ルールは際限なく増え、しかしミスは減らないと思います。なぜなら、そうしてつくられたルールやしくみが人を賢くはしないからです。逆にルールに唯々諾々と従う人間は、どんどんバカになるのではないでしょうか?
  さらに言えば、ルールは人を規定します。他人がつくったルールだと、そのやり方が本当に最善なのかを考えずに、無駄な作業を続けてしまいがちなのです。作業を行う人間にとってみれば、それで問題が起きても自分の責任ではなく、頭も使わなくてもいいので楽なのです。

 リチャード・ドーキンスの『延長された表現型』という本の中に、コンパスシロアリのアリ塚の記述があります。そのアリ塚は高さ数メートル、何百万というシロアリが暮らしていて、地中にはもっと大きな巣が広がっています。ドーキンスは、このアリ塚や、クモの巣やビーバーのダムも、私たちの指や足の形成と同じように遺伝子の表現型であると言っています。そして一匹のシロアリは、アリ塚が完成するとどうなるかなどという関心は一切なく、歩いて行った先にフェロモンを出す山があれば、ただその上にさらに泥の団子を置くという行動規則すなわちルールに従って、アリ塚建設に一生を捧げているのです。

 翻ってみればルールに唯々諾々と従っている人も、このシロアリと同じなのではないでしょうか?さらに言えば、私たちは毎日のようにカーナビやパソコン、スマートフォンを便利に使っていますが、知らず知らずのうちにある行動規則に嵌め込まれているのではないでしょうか?
  私たちは、便利さを享受することで、多くのものを失っているのかもしれません。

 もう私たちのほとんどは同じコンピューター、スマートフォンしか使えなくなっています。高度な使い方ができるわけでもないのに、WindowsからMacに替えるだけでも、とても面倒くさく感じてしまいます。その上、メーカーが同じ機種を使い続けさせようと、あの手この手を打ってきます。その結果、ほんとうに高度な使い方ができないのに、最新機種ばかり求めてしまいます。ソフトもほとんど同じことしかできないのに、毎回ヴァージョンアップをしてしまいます。
  先日社員が辞めたので、グラフィックソフトのアカウントの一つを解約しようと思ったのですが、ホームページを見てもどこから解約すればいいかわかりません。迷った挙句、やっとのことで解約担当窓口を探し当て、解約の手続きをしたのですが、とんでもないことにそのあとも請求が来ます。まるで詐欺です。ソフトを購入するときはいとも簡単に購入できるようにしているのに、解約するには異常なほどストレスがかかるように仕組んでいるのです。巨大IT企業は、あるソフトを購入すると、そのソフトを次も使いたいと思わせるのではなく、使わざるを得ない方向に私たちを追い込んでいることがわかります。
いわば私たちは、あのシロアリのように、IT企業が定めた行動規則に従って、パソコンやソフトを使用し、税金を納め続けるのです。そのあいだ、コンピューターやソフトはほとんどの人びとを賢くはしません。しないどころか、ゲームやYoutubeにはまった人々はどんどんバカになっていくのではないでしょうか?
もしかしたら私たちは将来、パソコンやソフトばかりでなく、巨大企業が用意した情報、ニュースしか得られず、クルマに乗っても彼らが設定したルートをたどり、同じ景色しか見ることができなくなるのではないでしょうか?

 この先にあるものは、超格差社会かもしれません。事実、GAFAと呼ばれる巨大IT企業にマイクロソフトを足した時価総額は日本のGDPの8割を超えると言います。これらの企業の製品やサービスが、資産を持たない日本の労働人口に深く浸透しているのです。この影響力は非常に大きいと思います。電車に乗ってみればよくわかるように、若者の多くは本を読まず、暇さえあればスマートフォンをいじっています。まさにGAFAによって飼育されたシロアリです。一方で、ITを活用しながらも自立していて、巨大企業に左右されない人もいます。
昔からお金は金持ちから稼ぐより貧乏人から巻き上げる方がやさしいとよく言われますが、IT企業もこれだけは従来からの商売の鉄則に従っているようです。まさに富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなってしまうのかもしれません。

 不思議に思うのは、ITの時代と言われ久しい現在ですが、平均的な若者の学力が確実に下がっていることです。これはITは学生の学力向上に役立っていないという証左なのでしょうか?それとも、ITはできる子には有益で、できない子にはかえって害になるのでしょうか?一時はゆとり教育のせいだとか情報過多が問題だとか言われていましたが、それだけではないと思います。
私が接する若者の多くは、何でも答えはネット上に転がっていると思っていて、ネットの情報を移せば、それが自分の考えになると誤解しているふしがあります。「聞いたり見たりしたこと」と「知っていること」、「理解していること」の境界が非常にあいまいなのです。数学や化学の参考書には例題と類題(練習問題)がありますが、類題を解くときは例題を思い出して、それを類題に当てはめて解いた気になっていたりします。彼らにとっては、問題を解くとは、自分の外部にある例題と類題をマッチングさせることだったのです。自分の中で、法則とはなんだ、なんで例題があるのかという思考をする過程が飛んでしまっているのです。

books

 ノーマンという認知科学者は 『人を賢くする道具』という本の中で、認知には「体験モード」と「内省モード」があると言っています。体験モードとは読んで字の如く体験させて学ぶ過程で、これを鍛えることによって旅客機のパイロットが緊急事態にも的確に対応できるようになったり、テニスプレーヤーが高速で変化してくるスマッシュを打ち返せるようになったりします。内省モードは、自分の中で深く考えるモードで、これを発達させると新しいアイディアや行動が生まれます。おそらく自己を陶冶するには内省モードが不可欠なのでしょう。
ノーマンは、近来の教育は、学問に興味を持てない学生を引き付けるために、体験モードの学習ばかりしてきたと言います。私もこの説には非常に共感を覚えます。彼は言います。科学技術館のようなところで、ボタンを押すと恐竜などがアクションを起こす。これを子供たちは喜びますが、これが真の学習につながるとは思えないと。私もよく理美容師さん向けの毛髪科学の講習を依頼されますが、サロンやディーラーさんからは必ず「わかりやすい講習をお願いします」と言われます。以前は私ができるだけかみ砕いて話しても「わかりにくい」と言われ、ディーラーさんからは講習後のアンケート結果が思わしくないことを咎められました。不思議なのは、もうどうでもいいやと思い自分でもわからないような難しい話をすると、「勉強になった」と言われるのです。今はわかるのですが、美容師さんもディーラーさんも講習は体験モードのイベントだと思っているのです。ですから、「興味ないこと」=「わかりにくい」、「理解をはるかに超えたこと」=「勉強になる」という受け取り方をするのです。弊社の社員も、講習に行けば、なんかしら自分が成長すると思ってしまっています。しかし、体験のあと、内省モードの鍛錬を積まない限り、真の実力はつきません。いつまでもシロアリのままです。本を読んでも、ただ筋を追っているだけでは体験モードに過ぎません。1ページ1ページ、自分に立ち返って内省することが必要です。

 弊社は理美容師さん向けの業務用化粧品をつくり続けてきました。いわば弊社の製品はプロの道具です。この道具がお客様の技術を高め、お客様をより賢くするものであってほしいと思いました。
  また社員がシロアリのようになってほしくないとも思いました。電車の中でスマートフォンでゲームをし続けているような存在になってほしくないのです。
そのためには、毎日の職場や家庭の中で、体験モードと内省モードを繰り返す習慣を持たせることが大切なんだと改めて気づきました。
またルールは、ルールがなくても立派に仕事をこなせるような人間にするためのツールでなくてはならないとも思いました。そのためには、ルールが体験と内省を促すようなものである必要があります。
これらを推し進めるために私のできることは何か?それが今年の課題のようです。冗長な駄文に長々とお付き合いいただき有難うございました。
  本年が皆様にとって、穏やかで、体験と内省の一年になることを祈っています。

     良いニュースがある。テクノロジーはわれわれを賢くしてくれる可能性をもっているのだ。
     悪いニュースもある。テクノロジーにはわれわれを愚かにする可能性もあるということである。
                                      『人を賢くする道具』(D.A.ノーマン)

                             平成31年01月07日 亀ヶ森 統


 

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